娯楽時間の奪い合い メディア論もどき(?)

言うまでもないことだが、現在の生活において様々な娯楽があふれている。


本、漫画、ゲーム、音楽、テレビ、映画、インターネット・・・



本当に多種多様だ。

しかし、24時間という時間自体は変わってはいないし、人間が年をとるスピードも変わってはいない(筈)。




Amazonのようなロングテール商法が成功したのもこの影響が大きいと思われる。

個人の趣味の選択の幅が広がった結果、求められる商品も幅が広がった。
多種多様なアイテムを数多く扱う商法はこの現状に適っている。

自分自身もけっこうマニアックなものを求めたりするのでAmazonは役に立っています。





というのはさておき、有限の時間に対して無限に近い選択肢が広がることはどういうことか。


それは時間の奪い合いがおきるということ。

最近大学生ではテレビは見ずにインターネットしかしないという人や、映画のために2時間も拘束されている暇が無い人もいる。


奪い合いの中で選択されるような「旨み」が無ければ生き残れない時代になってしまった。


いくらでも替わりはあるのだから。




いかに時間を使ってもらうかという点で、
最近携帯電話のゲームはその内容の簡略化をはかり、「いつでも」「どこでも」「すぐに」できるメディアを作り出した。

モバゲーの怪盗ロワイヤルやmixiのアプリなど電車内でしている人もいるのでは。
というか家でする必要はそこまで無いと思われる。




移動のきかないもの(据え置きゲームや映画)はそのコンテンツのもつ魅力自体で人を惹きつけていくしかない。
ただ、固定コンテンツであるということは逆に安定しているということにもなる。

魅力が固定的であるからこそ固定のファンもついてくるのだろう。




簡略化されたものは「消費」の要素が強い。
消費が強すぎれば強すぎるほど、人の印象には残りにくいのではないか。

「無料で」DLした音楽やゲーム、動画も同様だろう。

マジコンを子供に買う親がけっこういると聞いた事があるが、それでは子供のうちに「消費」の観念が根付いてしまうのでは思う。



そうなると、ワンピースやポケモンのように正規に買われるものはそれだけの魅力を内包している。そして人々に評価され、思いでとして定着していく。
(もちろんプロモーションの力が大きいのも事実だが)




ただ1つ言えるのは、人の知的財産あるいは思い出となるようなコンテンツが時間を占有する中心にあるのは、人間がそれを生きていく理由・アイデンティティとして求めていく限り不動ではないかということだ。